最近、生活のリズムに少し、余裕があるためか、
寝る前などに、超久しぶりに、音楽?とかいう芸術のジャンルに触れてみるという機会が一昨日、あった。
いい音がするはずのCDプレイヤーとアンプと、ソコソコのスピーカーが、寝る場所の直ぐ側に既にセットはされているものの
電源を入れてみる機会は、これまでの生活には殆ど無かった。
6年前に、音楽学校の仕事を辞め、演奏を辞めて、家で教えるのもやめて、それからたしか5年ほどだった時に、少し演奏再開しようかなと思った時もあったが考え直し、資格の勉強を優先していたのと、
そもそも音楽を聴きたくもなく、それは生理的な意味でも、精神的な意味でもあった。
とにかく音楽を辞めるのなら、次、また再び関わりが始まる時には、自分自身納得のいく、生まれ変わり方をしているべきだと、感じていたし、それを急ぐ事も不正であると思われた。
二度と音楽なるものの必要を、自分の生活に感じることがなくなっても、それが自然ならそれが本当に良いことかもしれないし、むしろそう感じる事が出来たときにこそ、無から有への折り返し地点を経由することになると、そう感じていた。
自分には音楽は不要である、と感じることこそが、完成への絶対に必要な鍵であるとの考えを、どうしても捨てる気になれなかった。
他にも、変化が必要なはずの、価値を取り巻く概念が、自分の音楽の取り組み方を縛り、煽り、抑制し、欲と怠惰と愛と責任感と、無能と才能と、抗えない歳月のなかで、終わりの時を示唆しているように感じていた。
自分自身の形骸化に対して、僕が選んだのは、一番やるべきことをやる、だ。やるべきことは、やりたいことではなかった。
それが、何を生むか、も考えず、約束もされず、ただやるべきこととは、周りをみたら、その答えは直ぐに出て、それを選んで6年、殆ど楽器を触ることも音楽を聴くこともなく生活に身をおき、自身が、どう在るべきかを考え、選択し、出来たり出来なかったりしながら、過ごしていた。
意味も約束も未来も見ないことは、不正を告発されないためのただ唯一の方法である。
法的な意味ではないのは、わかってもらえるとして、
なにかしら価値として世の中に受け入れられている、生産的な、ポジティブな、有意義な、アートと言われるようなことを、不正として、僕が、仮に定義しているとしたら、現代のシトタチは理解を示すはずがない。
そしてそれを意味していることを発表しよう。
僕は、やっと折り返し地点に来たようだ。
不正を避けること(モノ、でさえない)でしか、芸術と呼ばれるものに値しないこと、そして爆発でもないこと、わかりやすく言う部分としては、エンタメは芸術の正反対であること。
さて、独り言を書き留め終わって、やっとここからブログを書き始めます笑
で、言葉にならない音楽を、昔聴いた音楽の中からやっと見つけ出して、聴いてみてやっと落ち着き、
これかぁ〜、としばらく何も考えず、しかし聴きつづけることを受け入れ、今の自分が何を感じているのかと考えながら思いを巡らして、
言葉にならない音楽、が自分の折り返したところに流れてきたことが、偶然ではないことに気付いたのだった。
なんと不正ではないことだろう。
今、既に僕のこのブログが意味を持ち始め、同時に不正に近づいている。
ここで終わっておくことで、